先日、「会社に嫌いな人がいて苦しい」という内容のご相談を頂きました。
「いるいる…嫌な人っている…いるよねえ…」 と思いながら、わたしなりに考えてみました。
わたし自身、人づきあいが器用にできるかといえばそうではありません。
でも、相談者さんはわたしのこれまでの文章から、この性格を感じ取っているのではと思いました。わたしと似ているところがあるのかもしれません。
そのうえでのご相談かと思うので、わたしなりに「嫌いな人との付き合い」に対して思うことを記事にてお返ししますね。
目次
【共感編】これ以上、嫌いな人と対峙しなくていい◎
嫌いな人って、同じ空間にいるだけで嫌な気持ちになったり、一緒にいない時間さえもイライラしてしまったり、嫌いなはずなのに、気づけば嫌いな人のことで頭がいっぱい…なんてこともありますよね。
でも、嫌いな人と対峙する必要はないと思っています。
嫌いな人は嫌いでいいのだけど、向き合うべきはその相手ではなく、自分自身にあるなって思っています。
嫌いな人のことを考えている時間って嫌ですよね。
理解できないし、腹は立つし、精神衛生上よくありません。。
なので、「嫌いな人そのもの」と向き合うなんて苦しいことは、どうかやめてください^^
「嫌い」という感情が湧いたのは、あくまでも自分の中。
嫌いな人を中心にするのではなく、一番大切な自分を主軸に考えてみて欲しいなって思います。
もちろん、パワハラやモラハラなど、各種ハラスメントで追い詰めてくるような相手なら、しかるべきところに相談したり、状況によってはその場を去る必要もあると思うので、くれぐれも無理はしないでくださいね。
「怒り」に隠れた自分の気持ちを掬いだす
嫌いな人には怒りや恐怖、不安など、ネガティブな感情を持つかと思います。いわば拒絶反応ですね。
そんなとき、わたしは次のような流れで思考を掘り下げます。
- この「嫌い」は、相手のどんな部分に対してだろう?
- 本当は相手にどうして欲しかったんだろう?
- それが叶わなかったから、「悲しかった」んだな?
こう考えてみると、「怒り」へのロジックと自分の価値観、気持ちが見えてきます。
- は、自分の価値観、そうならないように気を付けていること、あるいは自分も持っている部分。
- は、自分が相手に抱いていた期待。
- は、「悲しかった」という一番最初の心の反応。
怒りが湧く前には、「悲しい」という気持ちがあったはずで。
それを押し込めて怒りだけを重ねていると、いずれそれは憎しみ、恨みといった感情になってしまいます。そうなると本当に苦しくなります。
「こんな人に傷つけられたなんて?!」と認めたくない気持ちも生まれるんだけど、自分の感情は素直に認めてあげることにしています。
嫌いな人のためじゃない、自分と向き合うために。
「怒り」「嫌悪」って実はいいやつ
怒りを感じている自分のことって、あんまり好きになれないですよね。
「もっと心が広ければ…」
「イライラしてしまう自分はダメだな…」
怒りを感じ続けていると、こんな風に自分を責めてしまうこともあるかもしれません。
でも「怒り」の前には自分の素直な「悲しい」って感情があるわけで、「怒り」はその辛い悲しみを感じなくて済むように湧いてるものだって思うんです。
自分の傷をまじまじ見つめて、「痛い…悲しい…」と感じるのは大変つらい作業。
怒りは、それをさせまいと、自分が傷つかないように守ってくれる感情だとも思うんです。
不器用だけど、優しくていいやつですよね、「怒り」って。
だから「自分のことを守ってくれてるんだな」くらいに考えて、怒りを感じている自分のことは責めないであげてくださいね。
人が好きだから、人で悩む
期待を裏切られたってことは、そもそも相手に期待をしてしまっていたわけで、期待しちゃうってことは、なんだかんだ人が好きで良好な関係を築きたいという気持ちの表れだと思うんです。
本当は仲良くしたかったけど、いろいろな事情があって仲良くできなかった。
人間関係の悩みって、こういうことだと思うんです。
人に期待してなかったり、人に興味がなかったらそもそも「人」で悩まないと思うから。
人が好きだから、嫌いにもなっちゃうのかなって思うんです。
人に対して興味があるって悪いことじゃないと思うから、その気持ちは大切にしていいんじゃないかと思います。
世の中、本当にいろんな人がいるから、分かり合えなくても、理解してもらえなくても、それが自然なことなのかもしれません。
相談者さんは、「嫌いな人がいる」心の状態を責めているように感じました。
でも、嫌いな人がいてもいいと思います。

【心もち編】それでも関わらなければいけないときは
嫌いだからと言って、一切の関わりを遮断できる相手ばかりではありません。
相談者さんのように会社の人だったり、家族や親戚関係だったり、ママ友やご近所、地域の繋がりなどいろいろあると思います。
わたしもこれまで転職したり副業したり色々な環境に身を置いてきましたが、程度の違いはありますがどこにでもいました、嫌いな人。
血気盛んなもので「これはありえない」「許せない」と奥歯をギリギリ言わせていましたが(こわい)、今は考え方を変えるようにしています。
仲良くしなくていい
嫌いな人と関わる時の大大大前提として「仲良くしようとしない」ことにしています。
仲良くしようとしない。仲良くしようとしない。
コミュニケーションテクニックとして、「自分から歩み寄ろう」「相手との共通点を見つけよう」「相手のいいところを見つけよう」などの方法がありますが、わたしはむしろ、無理に仲良くしようとしないことを大切にしています。
もちろん、仲良くなった方が得なこともありますし、そうできるならした方が良いと思いますが、わたしは無理だったしストレスにしかなりませんでした。
表面的にうまく仲良くできたとしても、自分の気持ちに嘘をつくことの方がわたしには辛かったし、自分が相手だったらすぐバレちゃうだろうなって思うから。
それに、同じ空間にいるからといって、「仲良くしなくてはいけない」というルールはないはずで。あったとしても、それは価値観の一つに過ぎません。
仲良くなれない相手と仲良くなろうとしてしまうから苦しいんですよね。
最低限のマナーを持って必要なときに接することができれば充分。それだけで100点です。
同調圧力とか、諸々面倒なことを感じるかもしれないけど。
仲良くしてもいいし、仲良くしなくたっていいんです。
理解しないし、理解も求めない
ついやってしまいがちなのが、「この人はなぜこんな言動なのだろうか?」と嫌いな人を理解しようと努めること。
そうするとどうしてもその原因を「自分」に見出すことになりますよね。
すると、嫌いな人と共謀して自分を攻撃することになってしまいます。
他人はコントロールすることができませんし、理解しようとしても不可能。
理解できないから嫌いな人なのであって、そこを更に理解しようとするのは無意味だと思うんです。
わたしは嫌いな人のことは理解しないし、自分のことも理解してもらわなくていいと思うようにしています。
嫌いな人と自分の自由を認める
自分が「〜ねばならない」思考に縛られているときって、一番自分の自由を奪っていると思っていて。
自分の価値観を貫くも良いし、ときには自分のルールを破ってしまうことがあってもいいと思うんです。
人間、心の選択はいつだって自由です。
物理的な選択はもちろん、気分も、思考も、自分の自由を尊重してみてください。
自分ルールを侵したところで逮捕もされないし、罰せられることもありません^^
そして、嫌いな人にも同じように自由があります。
自分の期待通りに動くこともしなくていいし、良心的でなくても、不正をしてもそれは相手の自由。
たとえその価値観や生き方に賛同できなくても、相手がそこに存在し自由でいる権利は、誰にも奪うことができないんですよね。
嫌いな人だけが自由なのではなくて、自分も同じように自由であることを、いつも心の片隅に置いています。お互いに自由。
自分のルールで他人をジャッジしたり縛ることは、まわり回って自分を雁字搦めにしてしまうと思うんです。
おわりに
いただいた文章を読んでいて、相談者さんはきっと責任感が強くて、正義感も強い方なんだろうなって感じました。
と、頷きすぎて危うく首がもげるかと思いました。
嫌いな人に対しての許せない気持ちと、嫌いな人に100%優しくできない自分を責めてしまう気持ちが混在しているのかな、と。
でも、全員に好かれることはできないように、全員に優しくすることもなかなか難しいと思うんですよね。
そして、強すぎる正義感は自分も他人も傷つけてしまうことがあって。
多くの人からすると、自らロープにぐるぐる巻きになってもがき苦しんでるようにみえるのかもしれません。
嫌いな人はいてもいいし、嫌いな人には優しくしなくたっていいと思うんです。
ちゃんとマナーを守っていれば、+αの優しさなんてあげなくていい。
いいんです、「嫌なやつ」だと思われたって。
難しいかもしれませんが、少しだけ肩の力を抜いて、嫌いな人がいる不完全な自分、万人に優しくできない不完全な自分を抱きしめてみてください。
見てる人はちゃんと見てくれてます。