HSPの発信について色々考えると、HSPとはどうあるべきか・・みたいな概念に囚われそうになる瞬間が多々あります。
いちHSPとしてブログを書いている以上
・誤解があってはいけない
・HSPの概念に恥じない発信でなければいけない
・同じHSPの人に嫌な思いをさせてはいけない
と何かと考えてしまいます。
でも、わたしのHSPに対しての最大の発信は、HSPとは何かを伝える・・という専門的な話ではなく【HSPでもみんな違うよね】ということ。
「HSPはこうじゃなきゃいけない」なんてことはないし、もっと自由に発信していいんだよね、と思いました。
HSPのファブリックイメージを壊すのでは・・という不安
以前、HSPについてこんな風に言っている人がいました。
※ご自身もHSPの方です
この言葉を聞いたとき、まだHSPの概念をきちんと理解出来ておらず、かなり混乱したのを覚えています。
HSPの人の傾向として
・優しい
・思いやりがある
・良心的であろうとする
という面はあると思っています。
でも、そうじゃない人もいますよね。
良い悪いではなく、「深く処理する」が自分にだけ向く人もいるし、他人に強く向く人もいます。
だけど、HSPは優しいというイメージに救われている人やそれを誇りに思っている人がいることも事実なわけで。。
わたしは自分でアクションを起こす人でありたいし、同じ不満を言い続けるより、現状を良くするために進み続けていきたいと考えてます。
その為には、やっぱり自分自身が【どうしたいか】にフォーカスすることが重要だと思っているんですが、そうすると「相手のことを考えたら自分を優先するなんてできない」「HSPはそんなこと出来ない」「この人はHSPではない」と思われてしまうんじゃないか・・と怖くなることがあります。
もっと自由に生きていいんだよね
わたしが尊敬したり、人間的に好きだなあと感じる人には、元の気質が敏感かどうかは関係なく【マインド】【考え方】に惹かれるんですよね。
そこに強く共感したり憧れたりするから
「自分軸とはなにか」
「好きなように生きることは不可能ではない」
という想いに達したんです。
ブログを始めたときから、定期的にやってくる【HSPらしさとは】という疑問。
HSPが自由に生きることの足かせになるのであれば、わたしはHSPの概念から離れて生きたほうがいいのかもしれないな、と思ったりもしました。
だけど、いくら気質が同じだからといって、やっぱりみんなに好かれるなんて絶対に無理なんですよね。
HSPの概念に救われた一人としても、あえてわたしはHSPであることは隠さないで発信していくし、生きづらさを抱えている人(過去の自分)に
「もっと自由に生きられるよ」
「自分で決められることは山ほどあるよ」
と伝えていきたいと改めて思いました。
妬むより、素直に吸収したい
「欲しい」「そうなりたい」あるいは「そうなってはいけない」というタブーを誰かが冒している場合、人は怒りを感じます。
私の場合は
・人に甘える(頼る)ことに躊躇がない人
→人に甘えてはいけない・自分は甘えられなかった
・自分の欲求に素直な人
→人に迷惑をかけてはいけないというタブー
に対してそうでしたね。
もちろん、「怒り」の全てが悪いわけではないと思います。
ただ、それで自分を縛りすぎると、他人への怒りや嫉妬、ネガティブな感情に支配されてしまいがちだと思うんですよね。
あなたにとってのタブーは、本当にタブーなのか。
「そうならないように」と気をつけていることもあれば「本当はそうなりたい」気持ちが隠れているかもしれません。
私の肌感覚ですが、自分に素直になったり好きなように生きたとしても、必ずしもそれを「迷惑」と捉えられるとは限らないんですよね。
だから、もっと自分がどうしたいのかを考えて素直に表現してみてもいいんじゃないかな、と。
自分の人生なんだし、良くも悪くも、明日なにが起こるかなんてわからないですよね。
命あるもの、いつか絶対終わりがあるんです。
その終わりも、いつかはわからない。
他人に振り回されて他人を気にしてばかりいたら、自分の人生を生きることは出来ません。
だから、他人の気持ちを自分ごとに感じがちなHSPの人でも、自分の気持ちを表現しながら、周りと心地よく生きられることを、わたしなりに発信していきたい。