環境によっては理解されにくく、ただの甘えや弱さと捉えられてしまうことも多いHSP。
この気質は、全くそうではない人にとっては、感覚として理解しがたいものかもしれません。
何度か記事にしているけど、わたしは家族への理解を求めに求めまくって、最終的に自滅した経験があります。

今は距離を保ちながら良好な関係を築いていますが、当時は「どうにか1ミリでも理解してもらいたい」と強く願っていました。
でも、現在はシンプルに「理解されなくてもまあ仕方ないネ」と思っています。
無理に理解してもらう必要はないのかも
わたし自身、HSPという気質に生きづらさを感じることが多い人生でした。
理解されない、否定される(と感じる)ことが多かったので、気付いたら自己否定をすることが当たり前になってしまっていました。
HSPという概念を知ってからは、家族などに「こういう気質があってね…」と少しでも理解のキッカケになればと働きかけ続けていました。
何年もの闘い(?)の末、今となっては多少は理解しようとしてくれていることは感じますが、やっぱりわからない人にとってはわからないものなんだな、とも思うのです。
もちろん、家族やパートナー、親しい友人などにこの気質を少しでも理解してもらえたら、わたしたちは心強いしとても幸せな気持ちになると思います。
でも、どんなに相手を尊重したい気持ちがあっても「わからない」こともあって、それはもう仕方のないことでもあると思っています。
感覚として理解できないのは、お互い様
傷つきやすい人に対して、傷つきにくい人としては「なんでそんなことで傷つくの?」と純粋に疑問なんだと思います。
色々な人の話を深く聞いていると、何をどう感じるか、どう捉えるかは本当に人それぞれで、表面上は同じ対応に見えても、感覚は全く違っていたりするんですよね。
そして、
「そんなの気にしすぎ!」
「考えたってしょうがいないよ」
「わざわざそんな複雑に考えなくても」
こうした言葉を受けるたび、悪気がないとわかっていても、わたしはいつも小さく傷ついていました。悪気がないとわかっているのに、傷ついてしまう…。
でも、深く考える人にとっても、あまり細かく考えない人のことは、想像できても理解はできないですよね。
話を聞いて「そうなんだ」「そんな風に考えるんだ」とお互いを知ることは出来るけど、感覚的に理解できないことに関してはお互い様なんだなって思うんです。
他人に理解を求める前に、自分で理解するのが先
わたしは、家族の中で自分だけが違う、ということにものすごく悩んできました。
でも、そもそも自分のことを理解していなかった自分もいました。
自己理解を深めて、自分という人間をありのまま受け止めてくれる人たちのがいる環境を選んだことで、「誰かに認められる必要もないのかも」という気持ちに変わっていきました。

自分も他人のことを100%理解することは難しいし、長い付き合いでも知らないことなんて山ほどあると思うのです。
「理解できずとも、否定はしてほしくなかった」という気持ちはありますが、傷つけようとしたわけではなかった、という家族の事情も、今なら少しわかる気がします。少しだけ、なら(笑)。
寄り添ってくれる人は必ずいる
理解してほしいと感じる人には理解してもらいたいと考えるのが人情ですが、その対象が必ずしも多くを理解してくれる相手とは限りません。
でも、HSPの気質や感覚を理解してくれる人や、心を寄せてくれる人は必ずいるんです。
そして、そうした人たちは、こちらが特にアプローチをしなくても、勝手に理解してくれるんですよね。
必ずしもHSPではない、どちらかというと大らかなタイプであっても、感受性の強さを理解し(ようとし)てくれる人も、必ず存在しているんです。
実際、HSPは5人に1人と少数派ですし、HSPとはいえ、繊細さの度合いや価値観も人によって異なります。
似た人と出会う確率も、難しいかもしれません。
まだまだ理解されづらい気質であることは事実だけど、必ず、どんな人にも理解してくれる人は存在するとわたしは思っています。
わたしは、そんな人たちとの関係を大切に育てていきたい。
親など身近な存在に理解されないからといって、自分の価値がないとか思う必要は全くないよ、と思いつめていた当時のわたしに声をかけたいなと思っています。