こんにちは、中学時代不登校でした、なのです。
わたしはとにかく「学校」という場が苦痛でした。
「なんで親を困らせるの?」
「学校に行かないなら出ていけ」
「なんでみんなと同じことが出来ないの?」
親とは衝突し、身体を引きずられて学校に連れて行こうとされたことも一度や二度ではありません。
わたしにとって「中学校」は、抵抗で怪我をしてでも絶対に行きたくなかった場所。
HSCだったわたしが、当時学校に行きたくなかった理由と、当時の自分に伝えたいことを書きました。
HSCで不登校、不安でいっぱいのあなたには「大丈夫だよ」と伝えたいし、お子さんの不登校を心配する親御さんには、HSCだった当時の自分からの「お願い」があります。

目次
元HSC 不登校だった理由
わたしは中学2〜3年生の間、学校に行ったり行かなかったりと不登校の時期がありました。合算して6ヶ月間くらいだったかな?
当時はモヤモヤを言語化することが出来なくて、聞いてくれない親に「反発」という形でしかアクションを起こすことができませんでした。
多少なりとも「言葉で伝える」ことが出来るようになった今、当時の状況や気持ちを残しておきたいと思います。
もちろん、不登校になる理由は人それぞれ違うと思いますし、HSCでも性格や感じ方、状況はそれぞれ違うと思います。
親御さんには、一例として知ってもらえると嬉しいです。
威圧的な教員が苦痛だった
わたしの母校は、わたしが入学する前は不良校で有名で。
学校側の施策だったんだと思いますが、わたしの学年からガチガチに押さえつける教育法で指導されていました。
中学生だったわたしが見ても、わたしの学年の教員はみな「一致団結」し、張り切っているように見えました(他の学年の生徒、先生を見下した発言なども多かったです)。
威圧、暴力で従わせるやり方をしていて、とにかく違和感というか嫌悪感を感じていて。
一例ですが、下記のような日常でした。
- 体罰
- いきなり怒鳴る
- 従順な生徒をあからさまに贔屓
- 机を蹴る、黒板を叩きつけるなどの威圧行為
- 何かあれば「連帯責任」と称し、集会での長時間説教
こうした理不尽極まりない指導(?)の甲斐もあり、わたしの学年では不良と呼ばれる生徒はいませんでした。
こんな学校が苦痛で、「言葉」ではなく「殴る、怒鳴る、人を貶める」でしか表現しない教員を心から軽蔑していました。大嫌いでした。
「こんな人から勉強を学びたくない」と強く思っていたし、勉強する意味も、この人たちから教わる意味も見いだせずで、「学校の勉強」も嫌いになっていきました。
周囲との感じ方の違和感
今となっては、HSP・HSCという気質上、前述したような学校環境は特に苦痛だったとわかります。
でも、当時は「自分の普通」は「多くの人の普通」だと思っていました。
友達はいましたが、自分が感じる違和感を深く伝えることができず「そうだよね〜」「ムカつくよね〜」と同意されるたびに、「感じ方は同じなのに我慢できないのは自分だけなんだ」と劣等感を感じるようにもなりました。
どうしたら「気にしないようにできるか」がわからなくて、漠然とした周囲との違いに違和感を感じていました。
女子の人間関係
これは多くの女性にわかってもらえるはず。
どんな立場にいても「女の人間関係」ってめんどくささがつきものですよね。
特に小中高などの学生生活における女子の人間関係のめんどくささは異常で、グループやヒエラルキーが顕著にあらわれます。
「どう考えても性格悪い人」が良い思いをしていたり、リーダー格を中心にグループ内でシカトされるターゲットが移り変わっていったり、直接関係ない立ち位置にいても、そういうものを目にするのが嫌でした。
これは一つの仮説ですが、わたしの学年は教員にガチガチに押さえつけられ、個性の尊重もクソもない学校教育を受けていました。
教員に逆らう生徒こそいませんでしたが、他の学年(先輩から聞く話)に比べて、水面下での陰湿がひどかったように思います。
それぞれの家庭環境や性格は背景にあるにせよ、生徒のフラストレーションが「あの異常事態」に拍車をかけていたんじゃないかと思っています。
あの中学校に行く理由を見いだせなかった
わたし自身、わかりやすくいじめられていたわけではありません。
友達もいる、部活もそこそこ結果を出せている、勉強も普通についていけている。
そんな状態で「先生がやだ」「学校に行きたくない」と言うわたしを、親は理解できなかったんだと思います。
「なんで学校の勉強をしなければならないのか?」
「なぜあんな嫌な思いをしてまで学校に行く必要があるのか?」
この疑問に、親は「そういうものだから」という回答しかしませんでした。
いや、わかります。義務教育なのはわかる。
社会に出るまでに色々学ぶ場所ということもわかっています。
でも、「理不尽なことを耐え忍ぶのが大人なのか」「ただやりすごすことが正しいのか」という本質的な疑問への答えが知りたかったんです。
わからなかったら、一緒に考えて欲しかった。
少なくとも「いじめはいけません」「分け隔てなく」と偉そうに言いながら、平気で暴言、暴力で生徒を押さえつけていた教員を尊敬することは出来なかったし、学校に行かなければいけない理由は理解していましたが、「あの中学に行く理由」を見出すことができませんでした。
とにかく「安心できる居場所」が欲しかった
「死ぬのは怖いけど、わたしを知っているすべての人の記憶ごと消えてなくなりたい」
当時、よくこんなことを思っていました。
田舎なので出歩けば目立ち、近所には同級生の家もたくさんあったので、部屋のカーテンを閉め切り、家にいるしかありませんでした。都会とは違い、転校、という選択肢もありませんでした。
どこにも居場所がなくて、行き場も逃げ場もなかった。
ここでは、当時のわたしが周りの大人に「して欲しかったこと」を書いています。
「わがままだ」と思われるかもしれません。
でも、【ここにいてもいいんだ】と思える場所がたった1つでもあれば、真っ暗だった世界に光が灯ったと思います。
もし、「子どもにどう接したらいいかわからない」「子どもが何を求めているのかわからない」と考えてくれる親御さんに、「HSC、不登校だった自分」が伝えられることがあれば嬉しいです。
寄り添ってくれたら、それで良かった
わたしは学校に行きたくない理由を聞かれて話しても「そんなの甘えだ」「みんな我慢してるんだ」などと否定ばかりされていました。
理不尽に教員に殴られたときも、えこひいきで教員に意地悪を言われて傷ついたときも、事実を伝えても動いてくれる教員は、もちろんいませんでした。
クセの強い教員もいましたし、教員同士のしがらみも色々あったんでしょうし、そりゃあ波風立てたくはないですよね。
今のようにSNSなんてなかった時代。
身近な大人と言えば「親」か「先生」しかいなかったので、大人に対しては不信感しかありませんでした。
誰か一人でも「一人の人間」として対等に接していてくれたら。
気持ちに寄り添い、一緒に考えてくれる大人が一人でもいてくれたら、それだけで安心できたと思うんです。
強い言葉を使って強がるしかなかったし、それによって親のことも傷つけたと思います。
子どもじゃないけど、まだ大人にはなりきれない年代。
どうか一方的に否定しないで、話を聞いて欲しいんです。
話したくないと殻にこもる子もいるかもしれません。でも、「いつでも話せる」「聞いてもらえる」場所があるだけで、安心できると思います。
本人が一番焦っています
不登校という状態を「ずっとこのままでいいや」なんて思う子どもはいないと思います。
親が焦っているのはわかっていました。
「あんたのため」と言いながら、世間体を気にしているのも知っていました。
でも、本人が一番焦っています。
「この先どうなるんだろう」
「高校へは行けるのだろうか」
「人生の汚点になっているんじゃないか」
不安は常にあったし、みんなができる(学校に行く)ことができない自分が「ダメ」というレッテルを貼られていることも本人が一番よくわかっています。
そもそも焦っているのだから、「焦り」を揺さぶって不安にさせることはやめて欲しいのです。
本人が気づいていない側面を伝えることはしても、「そんなんでどうするの」「社会に出てやっていけないよ」などという言葉は、ものすごく子どもの心を傷つけると思うんです。
どうか信じていてください
「親にどう思われているか」は、HSCでなくても多くの子どもが敏感に察知し、気にするところだと思います。
その中で「この子はもうダメだ」あるいは「この子には絶対にこうなって欲しい」など極端に思わないで欲しいんです・・。
もちろん、お子さんを心配しているからこそ、このブログにたどり着いてくださった親御さんには、子どもを追い詰めたいと思う人はいないと思います。
子どもは親の保護下にいても「所有する存在」ではなく、親の期待通りに動けないこともあります。
「もっと可愛げのある子どもなら良かった」
「もっと育てやすい子どもだったら良かった」
親にとって都合のいい存在でなかったことに、ずっと罪悪感を感じていました。
でも、親にとって都合のいい存在になるために子どもは生きているわけではないですよね。
親には親の人生があるけれど、子どもには子どもの人生があると今は思っています。
「期待」はプレッシャーになることもあるけど、「この子は大丈夫」と信じてもらえたら、子どもは安心できるし「大丈夫だ」って思えるものだと思うんです。
当時の「わたし」に伝えたいこと
たった2年ほどの経験ですが、その2年間はわたしにとって恐ろしく長く、永遠に続く真っ暗闇のトンネルの中にいるような気持ちで過ごしていました。
HSCでも、別にHSCじゃなくたっていいんです。
不登校だったり、学校には行っているけど漠然とした不安や孤独感を感じている少年少女に、不登校だった過去があるわたしが「伝えたい」ことがあります。
当時思い描いていた「立派な大人」には、まだなれていないけど、「大人」と呼ばれる年齢になったわたしが今、思うことを聞いてもらえたら嬉しいです。
勉強をするのは「選択肢を広げるため」だよ
「何のために学校の勉強をするの?」と、当時抱いた疑問に対して、これまでずっと考えてきました。
わたしは勉強がすごく嫌いでもなければ、同時にすごく好きでもありませんでした。
平均点以上ならいいや、とテスト勉強もろくにせず生きてきました。(見習わないでね)
でも今、「学校の勉強をする理由は?」と聞かれたら、当時の自分にこう言いたいです。
「将来の選択肢を増やすため」だよ、と。
個人的には、「勉強だけ」ではいけないとも思っていますが、学校の勉強を頑張った先に「見える」「掴める」ものがあることも事実です。
進学や将来の仕事の幅を広げるために「勉強をしておいて損はないよ」とは思います。
1つの分野に注力するのもいいと思うけど、多くの場合は「将来の道」を早い段階で決められる人は少ないと思うんです。
どちらが良いとかではないけれど、広く学んで、多くの選択肢から選ぶのも一つの方法です。
あと、もう一つ。
「勉強を頑張り結果を出すこと」は単純に成功体験になります。
学校の勉強を「成功体験を積み重ねるための手段」と捉えてみると、退屈な勉強が少し楽しくなるかもしれません。
「不登校」は「経験」だよ
不登校という状況を「素晴らしい!」と言われることはあまりないと思います。
わたしもずっとコンプレックスだったし、中学時代のことはあまり人に言いたくありませんでした。完全に黒歴史だと思っていました。
でも、「不登校だった」ことが、なにか人生の足かせになったり、それで不利になることもありませんでした。
不登校だった事実を知られて誰かに引かれたこともなければ(少なくともそう感じたことはないです)、それで人が離れていった経験もありません。
自分の中では「闇」の時代ではありましたが、あの時代があったからこそ、今このブログ記事を書けている、とも思います。
中学を出てすぐは「汚点」だと思っていたけど、一つの「経験」でしかなかったんです。
だから「汚点」だなんて思わなくて大丈夫ですよ。
親も、大人も、間違えることはあるよ
子ども側からすると、親を含めた大人は、いろんなことを「教えてくれる存在」です。
叱られたり注意されたりもしますよね。
でも、親も、大人も、ひとりの人間。
親である前に、教員という職業である前に、ただひとりの人間です。
大人だからってみんなが同じ常識や考え方ではないし、大人の言うことが「すべて正しい」とも限らないんです。
もちろん、経験したからこそ、その立場だからこそえる言葉もあるけれど。
そして、大人も間違えることはあります。
わたしも大人になってもしょっちゅう間違えるし、失敗もします。
「だから子どもを振り回していいのか」「だから傷つけてもいいのか」と言われたら、決してそうではありません。
でも、あなたを現在進行形で苦しめている「大人」がいるんだとしたら、その人の言うことがすべて正しいとは思わなくていいんです。
学校の勉強には終わりがあるけど、人生の勉強には終わりがありません。
目の前の人から「学べること」を探して、「自分の中に落とし込むこと」を忘れず、これからも成長し続けていってくださいね。
大人も楽しいよ
「大人になったらもっと大変なんだぞ」
「理不尽なことがあっても、そういうものだ」
「社会に出たら嫌な人なんてもっといっぱいいる」
実際に大人の世界に身を置いている今、当時親に言われたことの意味もわかります。
社会に出るとびっくりするような人に洗礼を受けることも、理不尽なこともたくさんあります。
でも逆に、学生という「同世代」「横並び」だけでは味わえなかった、ものすごく素敵な出会いや出来事もたくさん待っています。
確かに、未成年や学生にはない「大変さ」もあります。
でも、子どもには子どもの大変さもありますよね?
大人になるとみんな忘れてしまうし、「あの頃はよかった」と言いたがるけど、子どもも大変なんですよね。
少なくとも、わたしは子どもの頃、不登校時代も含めてめちゃくちゃしんどかったし、あの中でよく生きてたなって思います。
社会的な責任を負わなくても良かったかもしれないけど、逃げ場もなく、居場所もなく、どこにも行けなかった中学時代が、わたしは一番しんどかったです。
「大人の方が楽しい」と言うつもりはありません。
未成年には未成年のときにしか感じられない「感情」「楽しさ」「若さ」「多くの可能性」があることも事実だからです。
大切なのは「他人のモノサシ」で勝手に図られて、起きてもいない未来を恐れないこと。
「大人は大変なんだぞ」「大人はもっとつらいんだぞ」という、偏った価値観に惑わされないでくださいね。
今、「不登校」について思うこと
年々、不登校の生徒は増えていると聞きます。
学校によって教育方針は違うでしょうし、クラスメイトとの折り合いや、抱える問題もそれぞれ状況が違うと思います。わたしの時とは時代も違いますしね。
でも、これだけ多くの子どもが「不登校」を選択するということは、それだけ個々を発揮して多様性が認められる世の中になりつつあるという一面もあるのではないか、と感じています。
個人的には、不登校を勧めるつもりは毛頭ありません。
学校生活でしか学べないこと、経験できないこともあると思っているし、集団生活でこそ知れるものもあると思うから。
でも、「学校」が子どもにとって苦しむ場所でしかないのであれば、不登校も1つの選択肢だと捉えています。
学校という場所には多くの刺激があります。
良い刺激だけではありませんし、刺激に晒されることで追い詰められてしまう子どもがいることもいます。
一人ひとりが「ベスト」な道を「選択できる」、そんな世の中になって欲しいなと願っています。

この記事に書いた「わたしが学校に行きたくなかった理由」は、ほんの一例でしかありませんが、この記事がHSCや不登校に悩む子どものモヤモヤを言語化するお手伝いが出来たら、とても嬉しく思います。