こんにちは、なのです。
わたしは、両親、兄、という4人家族の中で育ちました。
結論から言えば、あの中で生きるのは本当に辛かったと思っています。
家族が悪いと言いたいわけではないけど、あまりに相性が悪かったと思っています。お互いにね。
似たような家族関係で悩むHSPの人に「自分だけじゃないんだ」と少しでも寄り添えたら嬉しいです。
目次
「HSPの気質」を疎ましく思われていた
わたし以外の家族はHSPではなく、そのためわたしのHSPの気質からくる特徴や感じ方を理解できなかったんでしょうね。
話しても「そんなことで?」「普通じゃない」などと言われてきました。
小さい頃から実家に「居場所」を感じたことがなく、いつも漠然と「自分はここにいてはいけない存在」「いるだけで迷惑をかける存在」だと思っていました。。
「なんでこの子はこうなの?」と、とにかく疎ましがられていたのは痛いほど感じていたし、でも「愛されたい」「認めてもらいたい」という気持ちも捨てられず、いつも「なんで?」「どうしたら愛されるんだろう」と考えていました。
「においを我慢できないのはわがまま」
わたしはタバコがすごく苦手で、今でも煙や臭いで頭痛や嘔吐に悩まされます。
父がヘビースモーカーだったので、当然父の車にはタバコの臭いが染みついていて、乗るたびに車酔い。
父はあまり干渉せずでしたが、母と兄には「また?」「このくらいでわがままだな」と思われていたのは空気で感じていました。
家族で出かけるのは楽しみだったけど、車に乗ると嫌な思いをする・・でも車に乗らないとどこにも行けない。
いつも「今日は具合悪くならないかな」と怖かったし、具合が悪くなっても言えないことも多々ありました。思い出すとつらい・・。
今となっては「化学物質過敏症」ということはわかりますが、当時は説明する術もなく、ただ非難されることが悔しくて悲しかった。

「あんたは言われなくてもできるでしょ」
2つ離れた兄は子どもの頃、身体が弱くどちらかというとぼーっとしたタイプで(母親談)、手がかかったそうです。
「あんたはなんでも早かったし、言わなくても出来る子だったから手がかからなかった」
大人になってはっきり言われたことですが、「それでか」と妙に納得しました。
子どもの頃は、母親に甘えたくてちょっかいを出しても、母は兄ばかり可愛がっているように見えていたし、「自分が甘えたら迷惑なんだな」は感じていました。
甘え方が下手だったのかもしれないけど、大好きな母親にあからさまに疎ましそうされるのが怖くて、素直にもなれなかったなとは思います。強がっていたな、と。
「なんで?」と突き詰めるわたしと、面倒くさがる家族
物事の本質や根底まで突き詰めて考える子どもだったので、納得できないことがあると「なんで?」とよく訪ねていて。
「よくわかんないけどそうなんだ〜」って思えなくて「それでは辻褄が合わない、どういうこと?」と生意気にも言葉での説明を重視していたんですよね・・。これは今も変わらないかも。
物事を深く考えないタイプの家族は「いちいちうるさいな」「めんどくさいな」と取り合ってもらえず。
「そういうものだ」で全て片付けようとする家族の思考は、わたしにはよくわからなかったし、考え方や感じ方がこうも違うなんて、当時は思いもしなかったなって思います。
「子どもだから」「妹だから」格下でしょ?
とにかく意味不明だったのが「子ども」「妹(年下)」だからと尊重されず、下に見られていたこと。
母と兄にはよく
「子どもなんだから親の言うことはきくものだ」
「妹なんだから下に見られて当然」
という価値観のもとで接してこられました。
相手が年上だろうと年下だろうと、「一人の人間」としては対等なのでは?という価値観を持っていた自分には、これが本当に納得できなくて。
仮に自分に落ち度があって思っても、格下と位置付けた相手には謝ることをしない母と兄。
母と兄は似ていたので気も合ったんだと思います。
母・兄でわたしを攻撃したり見た目のことをからかったりする構図ができていて。
まあ、わたしも気が強いので言い返してはいたんですけど。。
どこまでも価値観が違ったので、2人でわたしの悪口を言っている声が聞こえてくることもあって、とにかく「敵」だったしわたしも反発するのがスタンダートでした・・。
「家族は仲良くしなきゃいけない」という呪縛
物心つく頃から、家族に対して安心感や居場所を感じたことが無かったわけですが、当時はそう思いたくなくて、「はあ?!」と反発する気持ちと「仲良くしなきゃいけない」という気持ちが混在していました。
もちろん家族は、わたしにとって「理解してほしい」一番の相手でもありました。
この葛藤と闘いはアラサーになるまで続くわけですが、「もう無理だ」と伝えるのを諦めようとするたびに、「家族なんだから」「次はもうしないから」と情に訴えかけられていて、ちょろいわたしは「そうだよ・・家族なんだから・・」と思ってジーンとしてたし、そのたびに「わかってくれるはず」と信じていましたね・・。
「家族は仲良くするべきだ」という、わたしの理想と価値観が自分を苦しめていました。
なんだかんだ愛されたくて必死だった
家族に対しては、反発を通り越し「クソがッ!」(言語化できなくて口悪い)と思っていたものの、モヤモヤや寂しさの言語化が全くできなくて。
母にはもちろん一番わかって欲しかったし、愛情が欲しくてさんざん喚きました。
兄のこともなんだかんだ大好きで「認めてほしい」「仲良くしたい」とはずっと思っていたんです。
とにかく「どうしたら理解してもらえるか」「どうしたら愛されるのか」とばかり考えていて、ときに母を試したり、兄に気に入られたくて作文の題材にしてみたり、不器用なりに歩み寄ることもしてみました。
でもなかなかうまくいかず。というか気づかれず。
そのたびに「愛されてないんだな」と実感していて「自己肯定感」という言葉を知った20代前半には「自分にはこれがまるで無いんだな」と知ることになります。
常に見捨てられる恐怖があった
「あんたは○○川から拾ってきたんだよ」
冗談めかして言う母親の言葉、実は結構傷ついていました。
というか、半分真に受けていました(笑)
「確かに自分一人なんか違うし、顔も似てない。本当の家族じゃないのかもしれない。だとしたら合点がいく・・・」
違和感や疑問の答えが欲しくて、よく深々と「家族とは?」「拾ったなら愛情が持てないのも無理ないのかも」「じゃあなぜ拾おうと思ったのだろうか?」などと考えていました。
特に、母親と喧嘩や言い合いになったときには「見捨てられる恐怖」が猛烈にあって、わたしとしては「わかって欲しいから話す」わけなんですが、母親の性格としては「めんどくさい!知らない!ほっといて!」となるんです。
これも完全に性格、価値観が違うだけなんですが、当時は話している途中で立ち去る母親を見るとものすごく恐怖で、見捨てられる恐怖でパニックになってました・・。
自分が思う「愛情」を貰えないと思っていた子ども時代、「ここにいてもいい」と思えなかったから、常に見捨てられる恐怖がそばにいたし、自分に何をプラスすれば認めてもらえるのか・・とばかり考えてましたね。
その「思い込み」、一回疑ってみようか
わたしを苦しめていたのは、家族との相性の悪さももちろんですが、自分の中の思い込みによるところも大きかったと思います。
思い込みは、いわば価値観のこと。
価値観に良い悪いはないと思うけど、自分が信じて疑わないことも、他の人からしたら全く気にも留めない「どうでもいい」ことだったりします。
でも、わたしを苦しめていた「思い込み」は多くの人も持っている価値観かもしれません。
苦しいと感じる奥には思い込みがあって、それを一回疑ってみよっか?という提案です。
「家族が言うことは全て正しい」→本当??
家族の中にいると、わたしはいつも否定されているような感覚に陥っていました。
理由があることでさえ、一方的な決めつけを受けてレッテルを貼られてきたことも多いです。
でも、それは裏を返せば「家族が言うこと」に権威を感じ、「その通りだ」と思っている自分がいた、ということなんです。
家族には家族の価値観があるんですよね。
家族だろうと血が繋がっているだけで、別の人間には変わりありません。
だから違っても良いはずだし、そりゃ押し付けてくるのはどうかと思うけど(笑)、それもその人の価値観なだけで。
わたしは父、母、兄とは違う人間で、仮に「なのが間違ってる!こっちが正しい!」と言われようと、「わたしにとっての正解ではない」でいいなって思ったんです。
「家族とは仲良くしなければいけない」→本当??
大好きだったおばあちゃんが亡くなる前、病気で記憶力が曖昧になる中で、病室で言ってくれた言葉があって。
「なのちゃん、兄弟は仲良くしなさい。たった二人の兄弟なんだからね。」
当時20代前半。
おばあちゃんに言われた言葉にハッとして、「わたしが歩み寄れば仲良くできるかもしれない」と、兄に対しても言い方や伝え方を試行錯誤し、お互いにもう大人だから尊重しあえたらいいなと勝手に思っていました。
でも、全く響かなかった。
兄は「いつも自分が正しい」「HSPだかなんだか知らないけど、異常だ」「甘やかされてる」などさんざん言われました。クッソ・・!(口悪い。二回目)
その時、家族だから仲良くしなくちゃいけないなんてことは無いと思ったんです。
そりゃあ仲良くできるなら仲良くした方がいいです。
仲のいい家族、素敵だと思います。
でも、関わるだけで辛くなるなら距離を置いたっていい、「嫌いだ」って思ってもいい、離れて生きたっていい。
「仲良く出来ないなんてダメだ」と思うから苦しくて、ますます許せなくなっていたんです。
「仲良くしてもいいし、仲良くしなくてもいい」と思ったら、少しずつだけど気持ちは楽になっていきました。
「理解されない」=「愛されていない」→本当??
長年、家族の理解を求めてきたわけですが「理解されない」から「愛されていない」と思っていました。
家族の対応の一つひとつから「ほらね、やっぱり愛されてない」という証拠を拾い集めて、「自分の価値観は正解だ」という答え合わせをしていました。
傷ついていたくせに「やっぱり」と知ったフリをして強がって。
そうやってどんどん何を言われても信じられなくなっていきました。
信じると傷つくから。もはや疑ってかかる方が楽だったんです。
・・でもね、本当に愛されてなかったとしたら、今のわたしはいないんですよね。
美味しい料理を毎日作ってくれて。
色んなところに連れていってくれて。
動物もたくさん飼わせてもらえて。
行きたい学校にも行かせてもらえて。
一生懸命働いて養ってくれたのは、紛れもなく両親なんです。
負けん気の強い、可愛げのない妹だったろうけど、なんだかんだ頼ると兄も応えてくれることもありました。
「理解」「寄り添うこと」だけが【愛情のかたち】ではないなと今は思うんです。
・・・あ、別に今も家族と特別仲が良いわけではありませんよ(笑)
でも、家族には家族の「価値観」という事情があったんだな、ということは理解しています。
自分の気持ちは無視しなくていいよ
生まれた家の家族って、自分の意思では選べないコミュニティです。
家族だからこそ愛着もあるだろうし、家族だからこそ認めて欲しいと感じるのは自然なことだと思います。
近いからこそ強い言葉や心無い言葉には傷つくし、認めて欲しい大好きな相手であればなおさらですよね。一緒に住んでたりしたら余計ね。
もし、家族からの評価や言葉で「自分はダメなんだ」と思ってしまっている人がいるなら、そう思うのはちょっと待って欲しいんです。
「悲しい」「苦しい」「怒り」を感じたなら、その感情は否定しないでいいんだよって伝えたい。
たとえ「そんな風に思うなんておかしい」と言われたってね。
それじゃ、感情の行き場がまるでないじゃない。
感情くらい自由に感じたっていいじゃない。。
「許そうよ」なんて言うつもりはないし、簡単にできたら悩まないって話で。
わたしも思うように仲良くできなくて苦しいです。
でも、「思うように」っていうのはわたしの理想像で、それを相手に押し付けることはできないんです。

「家族がいるだけいいじゃないか」と言われるのも一理あるけど。
家族がいるのに独りぼっちなのも、別のつらさがあると思うのです。